この話を読んだとき、私の頭にはある一節が浮かびました。
一人のシェークスピアが栄えた背後に、幾人の群小戯曲家が、無価値な、滅ぶるにきまっている戯曲を、書き続けたことだろう。一人のゲーテが、ドイツ全土の賞賛に浸っている脚下に、幾人の無名詩人が、平凡な詩作に耽ふけったことだろう。(中略)一人の天才が選ばれるためには、多くの無名の芸術家が、その足下に埋草となっているのだ。
菊池寛『無名作家の日記』です。
(菊池寛と芥川は共に同人誌を発行しています)
芥川の足元には、大勢の無名作家が積み上げられている。
同人誌に細々と載る程度の、出版社から送り返されるような人がたくさん居る。
一方、芥川はその圧倒的な才能で群小作家を抜きん出て脚光を浴びました。
しかし、その光は強すぎたのでしょう。
強い光は濃い影を生み、それを彼は或声ーー天使・悪魔(メフィストフェレスか)・(おそらく)死神ーーと喩えて、自傷行為にも似た鋭利な言葉の応酬をします。
或声「お前は或は滅びるかも知れない。」
僕「しかし僕を造つたものは第二の僕を造るだらう。」
僕「シエクスピアや、ゲエテや近松門左衛門はいつか一度は滅びるだらう。しかれ彼等を生んだ胎は、ーー大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変へても、必ずそのうちから生まれるであらう。」
私は芥川賞を連想しました。
日本人なら誰でも知っている栄誉ある文学賞です。
もし受賞すれば時の人、ノミネートされるだけでも大変なことです。
そして、その人は、脚光浴びたその作家は、群小作家を抜け、「第二の僕」ーー第二の芥川になれるかもしれません。
この話は、芥川が自殺する直前に書かれました。
だから、自殺志願者の自問自答だと『闇中問答』は評されます。
確かに、読んだだけで心臓が切られるようなこの問答は、創作を経験した者であれば胸が痛むでしょう。
自殺志願者の言葉だと、思うかもしれません。
私もはじめはそう思っていたのですが、
この作品を繰り返し読むうち、案外違うんじゃないかとも思うようになっていきました。
魔が差す。
という言葉があるように、自殺は、自殺する人は、その時のことをあまり考えてない。
発作的に、衝動的に死んでしまう。
昼に笑っていた人が、夜に死んでしまったりする。
なぜなら、彼らの目の前には「死」以外の選択肢が無いからです。
「死ぬしかない」そう魔が差すのです。
(全ての方に当てはまるものではありません)
だから、「死」以外の選択肢を作れるように、カウンセリングなどの対応が必要になってくる。
天使や悪魔、死神と問答する芥川は、そこに何か救いをーー生きるための選択肢を求めて、生きようと思っていたのだ。
あれは自傷行為のごとく見えるが、芥川なりのカウンセリングだったのではないか?
そう感じるようになっていました。
闇中で光を探す話なのではないか?と。
そこで、拙動画では、彼の悩みの在処でもあるペンを握っているとき、
つまり、創作と向き合っているとき、握っていたペンが彼の問答ーー生きようと足掻く姿を目撃した物として、ずっと提示させました。
最後にクローズアップもしました。
芥川が亡くなって90年が過ぎました。
物が付喪神になるまで100年です。
もし、芥川のペンが付喪神になって、声を持って話しだしたなら、何を言うだろうか?
想像を巡らせ、結局あのようになりました。
終わりに、或声の正体ですが、そこは人それぞれが解釈を持つべきなんだと思います。
救いを求めたい対象は、人によって違いますから。
そのために芥川は「或声」としか書かなかったのかもしれません。