国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』
岡本役:小豆長光
「はいそさえてぃがにあう、といわれたが、よくわからないな」
近藤役:大包平
「演説が似合うといわれたが、当然だな!!」
竹内役:亀甲貞宗
「貞宗から社交場が似合うからと選ばれたよ!」
上村役:和泉守兼定
「北海道からの連想で配役されたぜ。ちっと安直じゃねーか?」
松木:髭切
「源氏の重宝なんだから、そりゃあ社交場は似合うよねえ」
この話を読んだのは学生時代で、国文学の講義の一環であったと思います。
そのとき、私はこの作品が半分好きで、半分嫌だなとの感想を抱きました。
本作は、前半の上村パート、後半の岡本パートに分けられます。
前半はテンポ良く、『牛肉と馬鈴薯』という謎のタイトルの理由を回収していきます。
一方、岡本パートはひたすら彼の語りが続くものですから読みにくく、さらには内容が難解なので、途中で挫けそうになりました。
その作品をもう一度読んでみようと思ったのは、岡本が国木田独歩の投影であったと知ったからです。
国木田独歩には『欺かざるの記』という有名な日記があります。
これを読めば少しは内容が分かるのでは?
他にも、『空知川の岸辺』という作品も関わりが深いと知り、青空文庫で読めたので読んでみました。
『武蔵野』を読んだことがあったので、その雰囲気に近いなと思いました。
さて、『欺かざるの記』ですが、図書館で借りたところ、1000ページ越えでした。
そのうちの700ページほどを読みました。
それでも十分に『牛肉と馬鈴薯』に反映されている国木田独歩の思想が分かる気がします。
国木田独歩は「理想の人」になりたかった。
理想の人とは「愛、誠、労働」。
しかし、国木田独歩はなかなかそれが「実際」にできない。
それを嘆くことが『欺かざるの記』冒頭から始まっていきます。
国木田独歩が「愛」を知るのはその数年後、佐々城信子との出会いでした。
彼女との恋愛と離婚は国木田独歩のその後に多大な影響を及ぼします。
それが、『牛肉と馬鈴薯』にて岡本が語る内容なのです。
『欺かざるの記』にはこういった記述があります。
世の中を夢と見る見るはかなくも
なほ驚かぬわがこころかな
あゝわが願は驚異せんこと也。
あゝわが心のなやみはわが心の眠り居ることを自覚せる事なり。
吾が心の誇は此の自覚なり。されどわが心の悲はこの自覚なり。
この自覚なくして驚異の念の少しだに起る理なし。驚異の念少しもなくして宗教的信仰ある道理なく詩的情熱ある道理なし。
国木田独歩は、自分が詩人であること、詩人として立つことを目指していました。
ですから、ここで「ここで詩的情熱ある道理なし」と述べていることは、つまり、驚けないことは詩人でいられないということになりましょう。
それはとても苦しいことでしょう。
その苦悩が吐露されているのが『牛肉と馬鈴薯』なのではないでしょうか。
その苦悩の一端を分かったような気がするのは、きっと私が学生時代から年を経ていろいろな理想に破れてきたからなのだと思います。
この作品は私の人生の折に、たびたび読み返すべきものかもしれません。